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カンニング

2011/03/06

京大などの受験を揺るがしたインターネットカンニング事件は、捉えてみればちょっと哀れな、親思いの、真面目な受験生だった。イクゼCIAでもなければ体制を覆そうとする革命家でも、組織犯罪者でもなかった。また高度な情報機器を使いこなすスパイもどきの人物でもなく、母親名義の古い携帯のキーボードををひたすら親指で打ち続ける親指族の若者だった。
多くのIT専門家や犯罪心理学者がまた恥をかいたと言うわけだ。彼は、その与えた衝撃が大きかったために、類似犯をださないために厳罰に処せられるのだろうか。
彼のようにヤフーではなく、ちょっと頭のいい友人にメールをして教えてもらっている受験生はいるかもしれない。クイズに応えるような感覚だ。
彼は親指がものすごく早く動くように発達したが、受験に必要な記憶能力をネットに預けてしまったのだろう。昔見た映画で、遠い未来で多くの人が口頭で暗唱して文学作品を後世に残そうとするシーンがあった。伝承文学の復活だ。それは紙がなくなり、コンピュータもなくなったから、人は自分の記憶に頼らないといけなくなったのだ。
銀行時代、算盤の試験があった。しかし算盤は使わず、電卓ばかり使った。暗算も算盤塾で子どもの頃やった。あの頃は、掛け算も割り算も暗算でできた?ような気がするが、今はできない。
電卓を使うから。英語の辞書をすりきれるまで引いた。今はやらない。電子辞書があるから。
銀行の時、取引先の財務書類は全部手書きだった。おかしい数字を書くと、自然に手が止まり、数字のごまかしを発見した。今は、コンピュータが全部作成してくれる。
記憶や計算や書くことや、いろいろなことをコンピュータに任せるようになった。僕たちはその能力をうしなった。受験と言う相変わらずのアナログの世界で闘う時、記憶しているはずなのに、手を動かせば答えが書けるはずなのに、なんだか自信がない。コンピュータに聞かないと自信が持てない。こんな不安な気持ちが、彼を襲ったのだろうか。
彼のカンニング事件は、コンピュータに能力の一部を預けっぱなしにしている僕たちに彼は警鐘をならしている。